創設者

founder

松尾 清二

松尾 清二Seiji Matsuo

宮城道雄に師事。宮城先生の仲人で上野恵子と結婚。先生からの信頼が厚く、宮城会副会長として先生を支えた。妻恵子と、その実妹の和子とともに松風会を立ち上げ、宮城道雄の芸統の継承に精魂を傾けた。

松尾 恵子

松尾 恵子Keiko Matsuo

大正五年九月十八日東京に生まれる。
宮城道雄に六歳から師事し、昭和四年三月東京音楽学校選科に入学、同八年第1回卒業生として同科を修了した。長年にわたり宮城道雄の薫陶を受け、実妹の和子とともに数々の演奏、レコーディング等を行った。

松尾 和子

松尾 和子Kazuko Matsuo

大正十一年三月二十一日に生まれ、恵子の実妹で六才の時から故宮城道雄に入門。昭和九年三月東京音楽学校選科に入学、同十二年同科を修了した。姉の恵子の左腕として、演奏、録音、教授活動を行った。

大正六年宮城道雄が朝鮮から上京した翌日、尺八の吉田晴風に伴われて早稲田鶴巻町の上野宅で「水の変態」を演奏。吉田晴風と同門であった恵子の父上野秀吉はその演奏に強い衝撃を受け、その場ですぐ叔母や親戚の人達を門人にし、その後尺八と合奏してもらいに宮城道雄の元に通った。当時生後八カ月だった恵子は、入門に良いとされる六歳の六月六日を待って入門。妹和子もまた六歳の六月六日に入門している。

第5回松風会箏曲演奏会プログラム

「先生の思ひ出」松尾 恵子

平凡社「音楽事典月報7 宮城道雄氏追悼特集」 (昭和31年10月ごろ?)からの転載

宮城先生が早稲田の私の家へお出になりましたのは、大正六年に先生が朝鮮から御上京された翌日だったそうでございます。かねて父が後援しておりました吉田晴風氏が、先生の御上京を待ちかねたようにして、先づ第一に父の家へ御案内されたのだそうでございます。その時演奏されました「水の変態」に、一座の人々はまるで強烈な電気に打たれたようであったと、父や母から幾たび聞かされたかわかりません。

当時私は一歳の赤ん坊でしたが、父は相当手広く質屋を致しておりました。今年七十四歳になる父が、その時の「水の変態」の演奏を、まるで昨日のことの様に、深い感動で語りますが、その時先生がお弾きになったおことは、実は質の流れで、ごく粗末なものだったと言うことでございます。先生御上京の翌日から、こうして父母をはじめ私共一家は、宮城先生をかけがえのない御方としてお慕いするようになりました。父は尺八の方で吉田晴風師と同門でございましたので、早速合奏をお願いすることになりましたし、母は幼時から長唄三味線をおけいこしておりましたのが、急に地唄に転向して、先生の門人となりました。

私はこの様な環境の中に育てられ、大正十一年六歳の時に入門いたしました。当時先生は牛込払方町に住んでおられました。始めておけいこに参りました時、調子が合うというので、大変ほめて頂いたのをおぼえております。先生が手を取って教えて下さった最初の曲は、「鯉と麩」という童曲でしたが、とてもおやさしい方で大好きになってしまいました。その頃は暗譜のおけいこでしたので、毎朝七時頃父母に連れられておけいこに通いました。

こうしてだんだんと曲も進むようになって参りましたが、大正十四年八月、私が小学校の四年の時、母が大病になり、一家奈良へ引き移り静養することになりました。母は芸事に大変熱心な人で、私をこの道で立たせようと決心しておりましたので、今先生からはなしてはと、いろいろお願いして当分の間先生のお宅においていただくことになりました。先生はとても子供がお好きでしたので、小猫でもあやすようにしてほほをつけたりして可愛がって下さいました。そしてよく背中をなでては、「こんなにやせて居ってはいかん。もっと肥えんといかんよ。ごち走を沢山食べるんだよ。」とおっしゃいましたが、今でもその折々の御様子を、はっきりおぼえております。

その頃毎日の様に夕方になると、先生を真中に、数江様と私とが両側からお手を引いて散歩いたしました。「瀬音」が出来上りましたのは丁度その頃で、先生は毎晩のように牧瀬様と合奏されておりました。私は遠くはなれている父や母が恋しくて仕方のない時でした故か、「瀬音」がきこえて参りますと、とても悲しくなり、よく御不浄へ入って泣いておりましたが、ある晩、声をおさえ切れず、とうとうお家の方々にみつかってしまった事もございました。 私が結婚の時、先生は初仲人をして下さいましたが、その席で、私が御不浄の中で泣いていたことをお話しなさいましが、今でも「瀬音」を聴く度に当時を思い出して、何か悲しい気持になります。

先生はふだんはとてもとてもおやさしい方でしたが、おけいこの時は別人のようにこわかったこともおぽえております。男の盲人のお弟子さん達には、おぼえが悪いと、『君に教えるのはザルに水を入れるようなものだ。私が一を教えたら二を悟るようでなければいけない。』等と大分きびしい事をおっしゃいました。先生は御自分の芸に対しては大変に御謙遜なお気持でいつも敬服しておりました。放送やレコードの吹込のあった後は、当分の間一日中御機嫌が悪く、お家の方々はハラハラしておいでになりました。

こうして筆を取っておりますと、なつかしい思い出ばかりで、とてもたえられぬ気持でございます。雑誌や新聞の方々には先生のことをお話するのも何か不遜なように思われて、一切御辞退して参りましたが、今は思い出すままをお書き致しました。

第7回松風会箏曲演奏会プログラム

「先生の箏爪について」

第7回松風会箏曲演奏会プログラム より

先生がお使いになった「爪」については長年ごく先生の身近かに師事致しておりましたのでよく承知していると思います。「爪」には大体次のような条件があると考えます。①全体の大きさ。②厚さと言うよりもむしろこの場合薄さと申したいと思います。③「爪」の刳り方、即ち角をどのように残すか。先生は角(いわゆる額)は少ない方が好まれました。④爪の材料である象牙の質の問題、余り硬いのは欠けることが多いのでよくない、ねばりのある上質のもので杢目のよいものを選ぶこと、大体以上に尽きるのではないでしょうか。

次に「爪」を付ける「輪」(爪のわ)は丈の余り高くないものを選びます。爪を輪につける時親指、差し指、中指の三種ともそれぞれ、その角度は好みに依って少しづつ異なるものです。先生は常に御自身で「爪」をつける仕事を極めて細心の注意を以つて行っておられました。そして、「爪」と輪の内側の指の肉に触る部分はほんの皮一枚にされるのが常でした。紙が少しでも残っているのは嫌われましたが、これは「爪」と指の肉とを最も接近した状態になさることが目的であったのです。勿論「皮」にしわなどあってはならないのです。

その接着剤は昔から行われていた「寒梅こう」という粉末を水でといて竹などのヘラでよくのばしたものを使用されました。最近は接着剤の発達はおどろくべきものがありますが、私共は今も先生の昔なされた通りの方法を行っております。演奏中に「爪」が指から抜けないようにするために玉子の白味を爪の輪の内側に塗っておいて演奏の10分位前に指を舐めて「爪」を十分強く指にはめるのです。いくら気になっても一旦はめた「爪」は決して2度とはめ直さないことが大切です。ゴムのり(アラビアのり)とも申しましたが、それを使った方が一段とぬける心配はなくなるのですが、演奏終って爪を取ろうと思っても中々とれついには爪の輪をこわしてしまうのです。

箏の絃を締める時にはしめ木に絃を巻いて締める直前に龍尾より根の方の絃を必ず舐めることが必要です。又三味線の糸をかける時、音緒と糸のふれる所を少嗢らせるのですがこれも指に少しつばをつけて行うものなのです。何だか日本伝統の音楽には少し妙なことが行われるものだと私自身でさえ考えるのですかからこれは他から見たら誠に珍妙なものに思われないかと少し気になります。

尚ついでに申しますと私は長年の間に何回か先生のお使いになった古い「爪」を下さいとお願いしたことがありましたが、先生は「昔から『爪をあげると縁が切れる』と言われているから」とおっしゃって、決して頂けませんでした。しかし今では五十数年を経過致しました。その数十年間のうちに私はいつの間にか先生の「爪」を持っていました。今謹んで白状致してお詫び申し上げます。

「先生の調子合せ」

絃もキチンと締っている。お手洗いにも松尾君が連れて行ってくれた。手も何度も丁寧に洗って来た。さてかねてから今日はこの爪でと選んであった爪をキチンと指にはめて本番の始まる少し前に先生はいつも必ず二分かせいぜい三分位調絃を兼ねて演奏されるのでした。ほとんど即興的に演奏されることが多かったのでしたがほんの数分間のうちに実に様々な手法を十分駆使されて真剣な演奏をなさるのでした。その間に箏と柱、柱と絃、その他いろいろな条件が調整されて箏が最上の条件を備えるようになるのでした。

次に「爪」を付ける「輪」(爪のわ)「さあこれで箏も十分響き渡ることだろう、あとは一つ私と一体になって最上の演奏をしようよ」

当時録音機がなかったのは誠に残念です。先生は一旦舞台に座られてからは決して大きな音を出されなかった方でした。又楽屋に於ても、もし先輩に当る方などが同席されている場合は極めてひかえ目に小さな音でごく簡単に調絃なさるのが常でした。

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